読書

落合陽一著『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘びと寂び』を読んだ

デジタルネイチャーとは何か

デジタルネイチャーとは「生物が生み出した量子化という叡智を計算機的テクノロジーによって再構築することで、現存する自然を更新し、実装すること」と定義される。

魔法の世紀

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落合陽一
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さらに噛み砕いて説明をすれば「人工物と自然物の区別がつかない世界」のことである。

コンピュータによる人工物と物理的な自然物が融和する世界観とも言うことができるだろう。さらに簡単に言えば、「人と機械、現実とVRの違いがつかない世界」のことを指しているのである。

すでにLINE上で会話できるAI女子高生「りんな」はすでに600万人もの友達がいて、沢山の人の話し相手となっている。仮想的な友人としてみなすのか、実在する友人としてみなすのかという問いを立てる以前に現実として生身の人間よりも親しみが湧く、相手だと思う人も少なくないと思う。

何が人工で、何が自然なのか、認識することが難しくなりつつある現在、これまで完全に区別されてきたArt(人工的なもの)とScience(自然的なもの)がコンピュータによって一つに繋がりかけているとも考えられるだろう。

特に以下の節は一読の価値あり

  • 機械と自然が融合する時代が始まる
  • コミュニケーションとしての蓄音機
  • 「AI+BI型」と「AI+VC型」に文化する社会

人間機械論、ユビキタス、東洋的なもの

ノーバート・ウィーナーは著書「サイバネティックス」にて「人間の行動を数理的にモデリングする」という主張を展開している。この主題は社会システム科学につながり、経済学・政治学・経営学に多大なる影響を与えたハーバート・サイモンにもつながる。

著者はウィーナーの最大の功績を「人間や社会を含めた<システム>をある程度予測可能な、モデリング可能な機会として捉える見方を提示した」ことにあると指摘する。

人間も自らの情報発信を自らフィードバックすることで、動作を可能にしている。
例えば、右から押されたら倒れないように、右側に重心をかけるとか、
カラオケで音程がずれないように、音の高さに合わせて、声の高さをかえるなど、
日常的に無意識のうちにフィードバック制御を行っているのである。

また、筆者は波動・物質・知能を三つ巴としてEnd to Endで解釈することを「自然」と定義している。ホログラムを「波動」とし、アナログ装置である「物質」と、デジタル演算である「知能」の3つの関係性から世界認識を解釈している。ここでいうホログラムとは「対象物と対象物の関係性を記述する情報そのものである」と定義される。

ウィーナーはサイバネティックスにおいて人間と機会に見られる共通点である通信とフィードバックという共通点を描き出すことで、逆説的に人間と機械の違いを浮き彫りにしている半面、著者は波動・物質・知能の関係性から捉える世界認識においては、人間と機械は本質的に同一であると扱っている。

筆者の用いる概念の一つに「理事無碍」という言葉がある。これはすなわち「理性と現象とが無碍(邪魔するものがない)なる関係」にあるという意である。

ここから、昨今深層学習で用いられる言葉である「End to End」による解釈は、データからデータ、すなわち事実から事実を引き出す。これを事と事の入出力の関係性とすると、「事事無碍」という言葉で表現できると説く。

  • コミュニケーションをAIが補う世界
  • <言語>から<現象>へ

オープンソースの倫理と資本主義の精神

筆者は本章においてマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』を引用し、プロテスタンティズムによる資本主義の発展から、すでに禁欲的な倫理性が欠如しているということ、そして今日では「オープンソースの倫理」がそれを補完していると論じる。

従来の経済的概念の外側にある評価経済をベースにした動きは、近年の仮想通貨によるトークン付与に見られるという。限界費用ゼロのソフトウエアの世紀では情報と信頼による新しい経済構造が自然化しつつあるという。

  • 絶えずリセットされ続ける市場の出現
  • 各分野で生まれるオープンソースの二重構造

 コンピューテーショナル・ダイバーシティ

我々が使っている日本語の多くの単語は、近代化された明治維新以降に翻訳されたものである。そのため抽象的思考をするには多くの欠陥を抱えていると筆者は指摘する。

横文字が増えているのは海外から持ち込まれた新しい言葉を正確に意味する日本語が存在しないことが一因になっているのである。

リアル/バーチャルは対義語ではない、リアルの対義語はNominal(名目上の)である。

リアルとバーチャルを実と虚と理解すると、バーチャルの解像度がリアルを超えたときに混乱が発生してしまう。そこで、筆者はデジタルネイチャーの世界においては、コンピュータを軸に、物質的(マテリアル)/実質的(バーチャル)という定義を行うことを提案している。

解像度が同一ならば、その違いはあくまでコンピュータによる実装の有無に過ぎないからである。

  • コンピューテーショナル・ダイバーシティ
  • ダイバーシティにコミュニティや社会の意思決定を最適化する

未来価値のアービトラージと二極分化する社会

筆者は時間方向のアービトラージとして、未来で得られる資本を過去に転換する、第三のテコのモデルをベンチャーキャピタルのビジネスモデルに代表されるものとして、紹介している。

この時間軸を横断するてこの確からしさを見抜くことが起業家と投資家の資質であり、その未来予想能力を補うにはプロトタイピングが最も有効だと主張する。

この第三のアービトラージを活用できる人間は、いわばAIの統計量の外れ値を取るリスクを担える人間としてこれまで以上に大きな価値を持つことになる。

高度に発達した資本主義社会は、実質的にゼロサムゲームとなる。
しかし、第三のテコによって市場全体の富が拡大すればゼロサムではなくなる。

新しいフロンティアを見つけ、時間と資本の評価軸に乗せることにより、世界の富は拡張する。そしてそのための資本は投資銀行やVCだけのものではなくなり、ICOやクラウドファンディングという個人からの直接資本によって成り立つようになる。

全体最適化された世界へ

先天的な問題を遺伝子レベルで解決するゲノム編集技術が発達すれば、遺伝情報は均一化する。それはつまり人類全体に対する共通の脆弱性を生み出すことに繋がるからである。

自然環境によって育まれた多様性を担保することは重要だが、脆弱性を補いながら、どのような身体性を新たに獲得するのかについて考えるべきであると主張する。

  • コード化によって変わる遺伝的多様性
  • 解体される「自我」「幸福」「死」の概念
  • 人間の生物的限界を超えた知性が出現する

 思考の立脚点としてのアート、そしてテクノロジー

デジタルネイチャー研究室では、何がバーチャルで、何がマテリアルなのか区別がつくことない領域において、あらゆる物理現象の最適化のためのコンピューティングによる超自然の到来をイメージし、そのために必要な要素技術や文化を論ずるために必要なアプローチを研究している。

具体的にはホログラムやファブリケーション技術の最適化の議論、そういった問題を説くための機械学習技術の基礎的な論述、アプリケーションを意識した機械学習の応用、実践とユーザースタディのクロスオーバーなどの研究と、それに加えた作品としてのアウトプットである。

エンジニアリングとデザイン、アートとコンピュータサイエンスの双発は、実践と思想が切り離せなくなった現代においてメディア技術を探求するのに不可欠であると論じる。

Fairy Lights in Femtosecondsという作品の意図するところとして、メディアは感覚的な拡張を志向していることがある。人間の感覚器の解像度の成約を突破することによって、新しい視座や物質と映像を超えた表現を生み出す可能性があるのだ。

さいごに

荘周は「世界の万象は言語によって仮構された見せかけに過ぎず、その深奥にはあらゆる歳を飲み込む普遍的本質がある」と解いた。

これを「道」とし、道の顕現を「物化」と読んだ。人が蝶の夢を見るのも、蝶が人の夢を見るのも、同じ道にある超越的な物事(物化)に過ぎないのだ。本書ではこうした世界認識を自然と不可分な人工的環境による「物化」への到達と見ている。

著者の論じるデジタルネイチャーはまさに、この超越的な物化であり、デジタルネイチャー的なアート作品はそのテクノロジーを組み込むことに取って、メディア装置として鑑賞可能な作品となる。このプロセスを加速化することが、デジタルネイチャー研究室およびピクシーダストテクノロジーズによる社会実装のプロセスである。

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デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂
落合陽一
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