自分が何を大事にしているかを決めること
人間が変わる方法は3つあるという大前研一氏の言葉
経営コンサルタントの大前研一氏の言葉で有名な言葉がある。
人間が変わる方法は3つしかない。1つ目は時間配分を変えること。2つ目は住む場所を変えること。3つ目は付き合う人を変えること。
この言葉は「なるほど」と腑に落ちるような重要な指摘をしている。
自分の目指す方向とずれているのなら、そこに至るまでの道のりを変えなければならない。
これらの3つを変えることを通して、結果として人が変わるということにつながるだろう。
自分を変える前に当たり前過ぎて触れられていない前提
大前研一氏には当たり前過ぎて触れていない大前提を多くの人は見過ごしている。
それは、最初に「自分が何を大事にしているかを決めること」だ。
何かに悩み「自分は変わりたい」「自分を変えたい」と願った時に向かう方向というのは、たいていは、「大多数にとっての良い方向」に向かうであろう。
しかし、実は自分はあまり大事にしてない方向であるにもかかわらず、向かってしまう人がいる。
例えば、資格を取ったり、転職したりして、世間的には称賛される方向に変わったにもかかわらず、
実は自分が大切にしていることとは反していて、目的を達成したのは良いものの、結果的に自分が求めているものが手に入らないことがある。
生きるとき自分が大事にしていることはなんだろう
漠然と自分を変えたいと思った時に、時間配分や住む場所や付き合う人を変えることで、得られるものが合ったとしても、
それが「何かを変えた」という満足にしか結びつかないのであれば意味がない。
まずは自分の大切にしていることを決めること。
とにかく自分の素直な気持ちに従ってまずは決めることから始めなければならない。
自分の行動を変えることと広い意味での環境を変えること
行動は人と環境の関数である
社会心理学者のレヴィンは「行動は人と環境の関数である」と論じた。
すなわち、人間の行動について探求するなら、行為者自身に属する要因(内的要因)だけでなく、
その行為を行った際に、行為者をどのような環境が取り巻いていたのかということ(外的要因)を考慮しなければ、十分な理解はできないということを意味している。
住む場所を変えても人は社会的環境の影響を受ける
そして、人間は物理的環境よりも社会的環境に依存する。
他者の存在は自然環境よりも強く、行動のみならず、思考や感情にも影響を与えるのだ。
大前研一氏は「住む場所を変える」と表現しているが、これはそのままの意味での「住む場所」を指してはいない。
住む場所を変えることで、学習時間が伸びたり、人と会いやすくなったり、刺激を受ける機会が増えるという意味では正しいが、
単純に海外放浪の旅にでたり、田舎暮らしを始めたり、南麻布に引っ越した結果、人が変わるという意味では決してない。
これは人間は物理的環境よりも社会的環境に依存するからだ。
付き合う人を変えるという意味を履き違えてはならない
付き合う人を変えるというも有名人のセミナーやネットワーキングコミュニティーに入ることで人との出会いで、なんとなく有名人にお近づきになったり、経営者を知っているということではない。
時に教えを請うこともあるだろうが、それはあくまで自分の意見に対して、その人の視点から新たな気づきを得るためである。
決してその人が自分の変化の全てをもたらしてくれるわけではない。
自分の手で自分の人生を冒険すること
人が言ったから自分がそうするというのがおかしい
人はこういうだろう。「人生を変えたければこうしろ」と。
でも多くの人は自分の何を変えたいのか、どうしたいのかも分かっていない。
「お金がほしい」「自由がほしい」。その願いをかなえる方法はある。
しかし、その対価は必ず支払う必要がある。
自分の手で自分の人生を生きるのならば、まずは自分が立つその足元を固める必要がある。
無い袖は振れないし、土台のない家は建たない。
時間配分や付き合う人や住む場所を変える前に自分の向かう方向が決まっているのか。
自分を小さな石ころだと思って世界を見てみる
その根拠は、何に悦びを感じ、何に憤りを感じるのか。
人間としてどうあるべきなのかということだ。
そして、そんなものに答えはない。自分で決めるだけだ。
その時に、自分を追い込むのではなく、人を追い込むのではなく、
答えがないことに気づき、自分の手で自分の人生をを取り戻すことから始める。
自分は小さな小さな道端の石ころだけれど、世界をよく見てる。
どんな人が美しく、尊敬できる人間なのか誰よりも知っている。
どんな人になりたいかがわかればそのために必要なことがわかる。
必要なことがわかればそこに至る道のりを考えることができる。
道のりがわかれば毎日どうすれば良いのか考えられる。
本気で変わりたいと願ったときに人は必ず変わる。
変われない自分を嘆いている人は、そうなっていたい道化師の自分を楽しんでる。