自分だってやればできると思うという嫉妬なのか。
それとも本当に多くの人は描けてしまうのだろうか。
私はこう思う。
おそらくそう思えたなら自分にでも描けるのだ。
事実、ピカソやゴッホの絵に似ている絵を書くことができる人は世の中にたくさんいる。
パット見てどっちが本物かわからないレベルの画家もいる。
しかし彼らの書いた絵は決してピカソやゴッホの絵ではない。
だから、著名な画家の絵を見て自分でも書けると思ったのであれば、それは努力と才能次第で真であろう。
しかしそれは決してピカソやゴッホの絵のような価値を帯びるとは限らない。
現実は、こうだ。
描けたとしてもだから何?
一般的にはあまり知られていない有名な画家の絵を見せて、それは美術界ではものすごく絶賛された絵だったとする。それでも来場者はその絵のことを知らないので 、有名な画家の絵よりは高く評価しないだろう。
逆にとてもよく知られている画家の絵は実際には美術界においてはあまり価値がないと評価されていても、一般的に有名であれば見る人は高く評価するだろう。
それが、美術界で評価され続けるうちに次第に一般的に有名になって価値が認められていくものだ。逆に美術界で評価が低い作品は芸術という意味においては評価されないが、有名であればお金を出してでもほしいという商業的意味においては価値を持ち続けるだろう。
また、こんな話もある。
ピカソはとある人にスケッチを書いてもらうよう頼まれた。彼は100万ドルを請求した。
うまい絵や綺麗な絵を書くことは決してできないことではない。
しかしながらその絵の価値は物理的な絵の具や構図やタッチから決められるものではない。その絵を書いた人の生き方やその絵を書くに至るまでのストーリーに価値を見出しているのであって、絵そのものに価値を見出しているわけではない。
子供の落書きのような絵を見た時に私たちは物理的に同じ絵を書くことができるという意味で誰でも書けそうだと思う。それは正しい。しかしその絵を見たときにどれぐらいの価値があるかを決めるのは見る人である。
それは一般的には他者であり、芸術家は他者に価値があると説得するだけの理由をそなえてなければならない。それを真似することはとても難しく真似したところで新しい価値にはならないだろう。
絵画を鑑賞する時には絵の構図やモチーフ筆のタッチと言った美術的な観点から見たところでその絵の価値はわからない。その芸術家が何を見てどう感じ、それまでにどういった 経緯 を辿って、この絵を描くに至ったのか。そして見る側もどういう感情でどういう歴史があって今この絵を見ているのかで価値が決まる。
想像してみよう。
あるものすごい人が作った作品をものすごく欲しい人が熱心に口説いてようやく手に渡った作品は二人の間ではそれは大変な勝ちがあると思っているかもしれないが、その価値もその二人の間だけであれば、その作品は社会的にはそれほどに価値はない。
その意味で子供でも描けるような絵という表現は決して誤りではない。子どもでも描けるからだ。
自分にでも描けるのだ。でもだから何?
もしあなたがそう思ったのであれば、あなたはもしかすると鑑賞する側の人間ではなくて、制作する側の人間なのかもしれない。他人に価値を認められなくとも、あなたの感じたままに作品を作り、それを世に問うことに生きがいを感じられるかもしれないのだから。
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