今、あなたがなにかに苦しんでいるのが事実だとしたらそれは決していい状態ではない。
自分が苦しんでいる状況という現実があるなら、恵まれてるとは言えないでしょう。
恵まれてるというのはおそらくもっと貧しい人とか病気や障害に苦しむ人と比較して、自分はまだそういった苦しみが無いのだから恵まれてると考えたに過ぎません。
恵まれてることは決してあなたの今の人生が豊かであるということではありません。
ストレスに対して自分がコントロールできることに意識を向ける
ストレスを感じた時に横になり指先まで神経を研ぎ澄ませてリラックスするのが良いのは、
単純な身体的なリラックス効果がストレス解消につながるからだけではありません。
体の指先まで意識を向けるということにより「自分がコントロールできること」を意識することが、自分の中に強い心を芽生えさせるからです。
「超、思考法」という本で紹介されているように、ストレスに自分が飲み込まれないためには、自分でコントロールできることとできないことを意識することが最優先になります。
インドのジャイナ教、ヒンドゥー教では「生命の正しき道」をダルマと呼びます。
そして同じく「生じたこと」をカルマといいます。仏教では業と言います。
これをものすごくシンプルにイメージするなら、ダルマとは自分でコントロールできることであり、カルマとは自分ではコントロールできないことであると考えてください。
カルマという言葉は業(ごう)という日本語を聞くと少し暗いイメージがありますが、実は悪いニュアンスはなく、単に「起こってしまったこと」なのです。
だから、カルマは人間のコントロールを超えたものであり、問題解決のために取れる行動はないのです。まず、この自分がコントロールできないことがあると意識します。
それではカルマは解決できないのか、一生業を背負っていかなければならないのか、そのために自分は常につらい思いをして生きなければならないのか?
それは違います。カルマはカルマ化するまえにダルマにできることが多いのです。
ちょっとわかりにくいですね。
端的に言えばすべてを自分のコントロール下に置くことを意識するということです。
ストレスに対して自分が変えられることをいくつか試す
例えばこんな例を考えてみましょう。
「上司に罵倒されたことで傷つき、自尊心が損なわれ、一日中そのことばかり感がてしまう。そして、ぼーっとした気持ちで、何も手につかない。」
罵倒してくる上司など一生に一度も会いたくないですが、そんなことがあるとしましょう。
このとき自分が今苦しんでいる理由というのが「屈辱を感じたということ」自体であるならば、それはすでに起こったことであり、それについてできることは何もない。
そう、何もできることはないのです。
しかし、それは今後もその問題を解決できないことを意味しません。
まず、この問題からどのような教訓を学べるかを考えることはできます。
これは自分がいくつの発見をするかということですから、いくつもの答えが考えられます。
例えば上司に罵倒された会議を振り返ると、「あのときこれを言わなければ上司の気分が悪くならなかったから今後はやめよう」とか「話が長すぎて参加者はイライラしていた。それに気づいた上司が声を上げたのだから、今後は端的に要点を説明するにとどめよう」とか、色々と気づいたことがあるでしょう。
このとき避けるべきは、これこれができなかったから自分のせいだとか、上司に叱られたということそのものに執着してそこで、ネガティブな感情に落ち着いてしまうことです。
そうではなく、上述のように今後の可能性、自分の行動を変えようと決意することにより、問題を「過去の会議で起こった嫌な出来事」というカルマから、「今後の会議で嫌な気持ちにならないための方法」というダルマに切り換えることができるのです。
そして、何より自分が問題とその対処法についてあらゆる角度から徹底的に考え抜いたことにより、自分が帰ることのできるポイントを見つけることができたと心から思うことができれば、ネガティブな感情は収まっていきます。
どんなに自分では変えられないように思えることでも少しは変えることができます。最初から罵倒してきた上司を殴ろうと決意する前に、自分ができることを変えてみましょう。
それでも結果が変わらないのであれば、次は自分がその問題から距離を置いてください。
相手に立ち向かったり歯向かったり、暴力を振るうことは相手を傷つけるだけでなく自分を傷つけることになります。
そして、自分で変えられることであっても、転職や離婚といった大きなイベントは精神的な負担も大きいものですから、比較的小さいものから試してみてください。
最後まで自分で変えられることを意識することを諦めないでください。
床に大の字になって、自分の手足の指の先まで意識を巡らせる時間を作るのは、一番身近な自分がコントロールしている感覚を呼び起こすための儀式と言えます。